prettier

衣替えが下手は私は今日もお気に入りのケープを羽織ってアスファルトの上をゆらゆら彷徨ってました。猛暑には負けない。
日頃の振る舞いを美しくしようと考えることは「美学」の範疇に入るでしょうか。私の美は”見えないところ”にあるものとしていて、ひょっとしたら当たり前かもしれませんがCDの向きを揃えてケースにしまうとか、下らないとろだと足の指の毛を全部抜くとか。服の隠れる部分にアクセサリーをつけるとか。←特にノットというのが好きで、毎日色違いで身につけています。

で、そういうちょっとしたことで心の潤いを保っております。「食事は身体の糧だが、芸術は心の糧である」とある学者が言っていたことを思い出します。
なんとなく手を動かさないと不安になってしまいませんか?創造哲学みたいな感じの言葉をどこかで見た覚えがあるのですが、人は創造が究極目的だとかなんとかで、「美」によって心を満たしているんだ という考え方があるそうです。現代人は社会の中で創造する余裕なんてあるのかなんて思いますが、考えてみればファションも創造のひとつなんですよね。ある授業で先生が「コスプレイヤーは生きた彫刻といえるんじゃないかなぁ」みたいなこと言ってて納得したことがあります。食事においてもそれぞれの好みとか人気で評価されるものがある=満足をもたらす、つまり美しいものを創造しているって考えられますか(強引かも)。そういう普遍的な満足を自分で判断する能力を「センス」と呼ぶそうです。

表現者の目的というのは身の周りに散っている美を適当な形で浮き彫りにすることなんじゃないかなーなんて。でもそうしたら私の”見えないところにある”美学って、創造ではあるけど表現とは違う気が…アーティストに向いてない?

w_0

ならば見せるしかない!

proof

おととい転んで手の平に傷を負った落蓋です。
「これだから雨は」と行き先の無い怒りを引きずり今日を生きている… ちなみに怪我と雨は関係ありません

定期的に自室の整頓をするのですが、毎度唸るような発見があります。再会と呼ぶのが正しい?
パソコンのファイル整理と部屋の整頓とではだいぶ差がありませんか?チリの積み重なりとか傷に惹かれてしまいます。このへんのアナログちっくな趣って最近の若者のレコードブームとか見てるとあながち少数では無いんじゃないかと思います。
ぎりぎりフィルムに触れて育った世代が手を出せるようになって、あの頃に思いを馳せる…みたいな流れが少なからず来てるんじゃないかと。

そんな訳で中学の授業で使ったフロッピーが出てきましたが、読み取る装置はどこへやら。たしかワードでホームページ制作とかした記憶があります。当時は最先端だったものも今や無となってしまうのだから、バックアップとかって次元じゃなくて、ものを遺すことって気休めでしかありませんね。
世の形あるものの中にはそうやって失われてきたものがたくさんあるんじゃないかと思えてきます。たぶんどの時代でも人類に知られてるものって月の見た目ぐらいじゃないでしょうか。
それでもいろんな記録や絵を、広く認知させたいという欲求は消えないんですよね。『今を噛みしめる』なんてことを考えました。それがいずれやってくる無念を和らげる一つの方法であると思っております。

patiently

朝のスケジュールが通学から通勤に変わった落蓋、最近は自分のプロフィールを撒き散らすように人と喋ってます。私は昔から自己紹介がブレブレですぐに思いつきません。だいたいそのときの気分で書いてるからだと思います。絵画も趣味の域を超えたと評されるようになり、今は趣味を「写真撮影」なんて言って凌いでます。

学校なら新しいクラスであったり、会社なら同期で自己紹介は避けて通れないと思うのですが、プロフィール項目ってのは簡単に思いつかなくて…無理矢理好きな食べ物とか言葉とか書くことになって。そういったことを考えるのに時間かかるのが嫌で、この灯台下暗しみたいな、身近なものほど認識しなくなる現象が残念で仕方ありません。

習慣として身に染みてしまうと頭が働かなくなるのか、その日だけ必要なものを簡単に忘れてしまうとかよくあります。ちゃんと管理すればと思えど、手帳を書く習慣が無いから…。
自分が見えてるのって習慣と習慣でないところの中間だと思うと、人の自己紹介って当てにならない気がしてきます。
人は自分を映す鏡といいますか、本当の自分らしさって外からしか見えないんじゃないかなぁと思ったり。アーティストはその辺しっかりやっとかないといけませんね。以上。

provide

私は変わることを嫌う傾向があります。というより大体の人間がそうでしょうか。新たな環境に対する不安、それまでの居場所を去ったりする喪失感というのは恐ろしいんじゃないかと思います。変化とは何なのか。

過去から未来まで変わらないもの。これは私が常に求めているテーマです。それはべつに止まってるとか、動かないとかじゃなくて、一貫した性質のようなものですね。これは身近なものほど、変化する自分との差によって見えてくるものだと思います。毎日歩く道とか、触るもの、あるいは匂いから見いだしていくわけです。それで何を見たいのかというと、変わり続ける自分の中にも変わらない要素というのでしょうか、大げさに言うと人生の指標のようなもの…が見えない積み重ねで出来上がってると思うんですね。北極星みたいに変化の中心には変わらないものがあって、それでときどき目標を見つけては自分の位置を確認して進んでいく訳です。その向かう先に辿り着くために何をすべきなのか考えなければならないんですね。どこへ向かおうが自由なんですが、だからって指標のない海をなんとなく彷徨い続けるというのは勿体ないなぁと思う落蓋です。

そんな自分にあたって、人生変わり続けることについて考えた次第です。

passion

自分はなぜ絵を描くのだろうと考えたことはあるでしょうか。

ある講義で『中学一年生に「芸術って何?」と聞かれたらどう説明するか』なんてものがありました。「決まった答えが無い科目」「自分を表現する」「感性を養う」などなど意見が上がり…最終的に「役に立たないが、人生を豊かにする」という結論になりました。どうあるべきか、何をすべきかは自分が決めなければならないと考えた結果です。

世の中単純に伝えられない気持ちや感動があります。代わりに絵、写真や音にして表現することで伝えることができれば…

数年前のこと、絵を描くことから遠ざかっていた時期がありました。その頃は大学生活が楽しすぎて絵を描く必要を感じてなかったのか、あるいは通っていたキャンパスが正直言って田舎だったので、自分の作品よりはるかに圧倒的な自然の風景に目が眩んでいたのか、情熱が冷めきっていたのです。
時間が経ち、ペースを取り戻して分かったことは、一人じゃ絵は描けないってことです。モチベーションを保つには外からの力が必要で、自力で次のステージへ上るのは厳しいことだと。周りには影響を与えてくれる人がたくさんいることを見落としていました。自分と違う世界を見ている人と関わるのは創造においてとても重要だと知った出来事です。

自分は何をしたいのか、何ができるのか。それを知るために描き続ける…