ロシア語で考えるんだ

当方実家暮らしなのですが、遂に家族全員がスマホを契約してしまいました。最新のiOSのアップデートも重なり我が家のADSLが断線気味のイヤホン並みの使えなさとなったので、こっそり個人でWiMAXを引きました。落蓋です。

メッセージという映画を見ました。言語がテーマで、評判通り哲学的でややこしい内容なので感想は割愛します。ネットを見回すといっぱいあります。
既存の言語学で掘り下げられたことを悟ったかのように書くのも井の中の蛙な感じがするので、身近な例かつ裏付けとか予備知識ゼロで書いていきます。
言語って音声や文字以外にも広い範囲をカバーしていると思います。言語の最低限の条件って媒体であることな気がします。
つまるところ芸術なり造形物も言語として成り立たないかと思った次第でして、いろんな作品から受ける刺激は言語として受容している…と解釈できないかと思ったのです。学校なんかで芸術鑑賞の感想を言葉で書かせられるときペンが進まない原因もここにあると考えます。文字を用いて伝えるには小説、リズムであれば音楽がそれぞれの言語として働いているとしたら?
伝えたいことの根源は頭の中で混沌としてて、それを順に発されたものが言葉、読み取る順番が制限されないものは造形物、というそれぞれの言語に知らないうちに囲まれて暮らしているんじゃないかと思えます。たぶんいちばん手軽とかで使いやすかったから言葉をコミュニケーションの軸にしているのだと思います。
多様性みたいなことまで考えたくなってきますが支離滅裂になる前に切り上げたいと思います。

そして流れ去った時間は…

もう十月かといえど、体感的には妥当だと思ってしまうのは時間を長い・短い・流れゆくもの、ではなく、収められるか・残せるかとする生活に変化したからではと考えることがあります。私がまともに絵を描かなくなったのも時間に対するゆとりがなくなってしまったからなのだろうか?漠然と絵が描ければいいと思ってた頃は起きたらアトリエに向かい、疲れたら帰り、成果があろうが無かろうが当たり前のように次の日が来ると思っていました。
いつの間にか「手を動かすか、さもなくば休んで明日に備えよう」という発想が生まれたんだと思います。現状が頭打ちになっていると確信したのか、当たり前のように日を重ねてくうちに人生が終わると直感したのだと思います。
「"いつか"は訪れない」らしいです。いつか充電が完了すると思っている自分への戒めとします。

さらば、求めよ

今更な梅雨のせいで天気予報が信頼できなくなってきている落蓋です。
朝に合羽を提げたロードバイクを見たならそこには私が乗っています。

結構前に手を出そうとして一瞬で挫折した3DCGに最近再び興味を持ち始め、Blenderというソフトを勉強しています。なぜここへ来て3D始めたんだという自分への疑問として、グラフィカルな趣味を持ってるのだからある意味必然的じゃないのという考えも無くはないんですが、それをさらに掘り下げると「挑戦する」という思いがあるように思えます。時代的に2Dというものが成熟してきたような気がします。3Dプリンタの発展やコンピュータの高速化で敷居が低くなってきているのもあって、必要ないからやらないのか/できないからやらないのか という選択肢が私の中に出てきてしまったのかなと感じます。思えば今までこの選択肢に何度もぶつかっては切り捨てたり沼に嵌ってきました。まあ誰しもこんなこと考えながら取捨選択はしてないと思いますが。

久しぶりに苦手意識と勉強に向き合ったという報告です。

見具合

毎日エアコンの効いた室内で過ごしているせいか近年梅雨や真夏に生きている実感を失いつつある現代的落蓋です。文明が発達するほど私は弱体化していくに違いない。この皮肉というのか矛盾っぽさはSF映画でありがちな、どう見ても原始的なフォルムの宇宙人がやたら繊細で清潔な道具を使ってるのを見たときのもどかしさに似ているとか考えています。
私は物の長さを測ったり揃えたりすることが好きなのだと最近気付いてきたのですが、思えば絵を描く時に脳があれこれ働いて立体を紙の上の線の集まりに変換する過程では位置関係や長さの割合を考えながら手が動くんだと思ってます。並べて揃えることが好きなのか、形を作る中で比率を見いだすことが好きなのか、たぶんそれが私の物づくりに関する原動力になってるんじゃないかと思います。

打刻

先週は気分転換のために日帰りで由比ケ浜で潮風に当たってきました。当方埼玉に住んでいるので、まっさらな空間を目の当たりにするだけでテンション上がってしまいます。都会とも田舎とも言えない場所に住み、窓の外は隣家の壁が視界の大半を占めるとはいえ、どこに住もうと劣等感は抱くのではとも思える今日このごろの落蓋です。

私は昔から直感を曲げられない性格なので、それを維持するための悪あがきとか執念に燃えるのが好きだったりします。頑張りではなくどちらかといえば自分基準のこだわりで動くので、自分がもう一人いたら構わず放っておきたい気分になると思います。ひねくれもの
以前にも書いたと思いますが、私は自分の持ち物に対する思い入れが強いので断捨離が苦手でボロボロになるまで捨てたりできません。そういう形崩れる運命に抵抗し始めたのは中学くらいから、ペンケースから始まったと思われます。布製のなんてことない代物なんですが、穴が空いた時に取った対応は縫うことでした。これが素人の手縫いだからどんどん悪化していく訳ですが、その度に縫っては縛ってだのしつこく修繕を繰り返し、高校卒業まで持たてたんですね。靴のメッシュの部分も縫う、今思えば貧乏すぎる人にしか見えない。。。
で、やがで鞄にその時期が来ると流石の私も直そうとは思わず しかし買い直して使い勝手が変わるのも嫌だったので、自作の道に進むのでした。

つづく

あとの祭りのあと

無事に新年度と花粉症を迎え自分を振り返ると昔ほど大して変わった気がせず正に光陰矢の落蓋です。
たまには長時間外で過ごそうと思い、普段通らない道を使ったり大きく遠回りしてると10年ぶりに見る場所に辿り着いたりする訳です。当時あれだけ遠いと思ってた場所もあっという間に到着してしまうと、ずいぶん狭い世界で生きてたのだなぁと気付いたりして。今も昔も自分が見てる橋や建物は同じなのに、かつて現実と思っていた世界は今見るとより現実的、というか、記憶の中の世界を裏側から見ているような感覚に陥るんですね。

年上と話して「10年あっという間」みたいな会話って誰もが一度はあると思うんだけど、子供の1年と年配の1年ってそれまでの人生の割合で考えると、確かに年上のほうが時間の感覚が早いはずなんですね。あらゆる出来事が細分化されて、変化に鈍くなるのかなぁと考えたり。
そんなこんなで記憶のなぞり書きみたいなことを最近試しております。当時見落としていた世界を補完することで自分を確かなものにしていくみたいな?走馬灯に出てきそうな場所を巡礼してみたい。これが私の提唱する自分探しの旅です。

posterity

春が近づくにつれ目が痒くなって仕方ない落蓋です。
忙しさを増している日々ですが、使える時間が限られるほど規則正しく動けるようになるのは何故でしょう、、
先週はサイトのコードの整理をしてました。このサイトはモバイルテーマも用意してますよー(今更)。

昔話になりますが、私がウェブ制作に触れたのは17くらいの頃でした。当時はアップル純正のiWebなんてアプリケーションがありまして、それとiDiskを組み合わせてしょぼいサイトを作っていました。しかしあれは初心者向けというか、全く仕組みついて触れる要素が無いので制約が多かったんですね、手書きでソースを書きたいと思うようになるまで時間はかかりませんでした。そこで目をつけたのがfc2あたりのサービスで、テンプレートをいじることからスタートしたわけです。カラーコードに触るだけで喜んでたのが懐かしい。
なんだかんだで全て独学で今に至るのですが、先日HTML5実力テストを受けてみたら。。。

まだ趣味の領域ですね。以上。

protection

一月も既に終わりかけ、自分に対する言い訳を重く感じるようになってきております。気持ちが時間に追いついていないというのか、このまま一瞬で年月が過ぎていってしまうのではないかという気すらします。
とりあえずノベルのコーディングから解放されたので今月から本業(?)の絵画制作を再開し、活力を取り戻しつつあります。もちろん今後のサイトのアップデートもこつこつ継続するつもりです。

習慣を変えることって難しい…善くも悪くも一度できた流れは中途半端な力じゃ動かせないんですよね。私の土曜は昼まで寝て長時間シャワーを浴び、部屋を掃除し、また一眠りしてから日曜の深夜、現在このブログを書いている時間帯に初めて活動的になります。ここまでに体調がリセットできれば何かしらの実績は残せますが、万が一頭痛でも起こした日には最悪な週末を過ごすことになります。いつの間にか平日に趣味の時間を過ごすことが億劫になってしまっていた訳です。

一度筆を持てば集中が続くのは変わらないところなんですが、そこまでの道のりが険しいんですよね。以前に比べて行動範囲が狭まったこととか、一日にすれ違う人間が減ったとか、刺激が弱まってきたことに原因がありそうな気がします。(象徴的な)大人になる通過儀礼として計画性とか、先を見ることを強いられることがあると思うのですが、これが一長一短なものでして、生き延びるために視点が広がる一方で肝心なモノを見落とすようになってしまうような、ぼんやり生きる体質になってしまったのだと考えます。

ちょっと前に進学した友人と話した時にそれを実感することがありました。意気投合してた頃ほど会話がスムーズじゃないというか、前はだいたい同じ物を見ていたゆえに会話が予測できたんですね。でもその予測ができなくなってしまっていて、私側としては多方面からトピックが浮かぶのに対して、向こうは目の前のことに熱中している、ある種無謀に見えるようになってしまっていたんですね。この一年でこんなに価値観が変わるのかと焦りました。

と言う訳で、頭の固くなりかけていた自分に対して「少しは子供になれ」という警鐘を鳴らした次第です。

planetary

少し前までの暑さに慣れたと思ったら今度は肌寒くなってきたました。冬装備は早々に切り替えられました。
個人的に夏より冬派です。暑さよりじめじめした感じが嫌いなんだと思います。他にも空気が透き通っているとか天気が良いところが重要ですね。都心寄りに住んでいるとこういう限られた時期に自然を肌で感じることができて嬉しい訳だけど、これって人間が勝手に遠ざけたんだよなぁなどと考えさせられている落蓋です。

生まれてからそれなりに時間が経過したせいか、あの頃の自分は…と考えることが増えつつあります。去年の今頃はサイトリニューアルの構想を始めてたっけなーとかのんびり絵を書いてたなぁとか。晴れた夜に星空を撮りに荒川まで三脚担いだり…
輝かしい思い出って田舎で過ごす夏休み的なイメージを持ってますけど、私のあの戻らない時間は冬にあり って感じで、やはり冬になるといつもと同じ部屋にいるはずなのに何か、違った空気というか匂いを感じるんですね。

夏にもそういうちょっとした変化に気付くことはあるんだけど、その時ってなんか前向きというか、転換点に訪れたって気分になるのに対して、冬の空気って過去の自分を考えたくなってしまうような、ちょっと立ち止まりたくなる作用があるんですよ。少し無駄に過ごしてみようとか、やっぱりやめようかとか悩んでる時間こそ記憶に残る訳で。
それで週末に久々に屋根に登ってみました。やはりあの頃の自分は…と考えながら唯一、この時期この時間にだけ戻ってくる星空をぼーっと眺めていました。

patient

五年ほど前に授かったiMacが遂に故障し、高い修理費を払って現在この文章を打ち込めるようになった訳ですが、そろそろ引き継ぎの心配もせねばということで思い切って最新の機種も購入しました。しかし旧台が戻ってからはずっと待機状態、反射防止コートやらで鏡としても今イチな具合でデスクスペースを占領されている落蓋です。

私は物を失ったり手放すのがまことに苦手な人間なので、今回のデスクトップ不在は事件でした。さらに先に述べた置物が増えたので断捨離も発生してストレス…それなりに良い状態に落ち着きましたが。
日常的なところでも、物が見つからなかったり落としたりすると見つけられるまで探し続ける性格で 自分でも困るというか、それで結局見つかってしまうから諦められないんですよね。例えばイヤホンのラバー部分は外で何度か落としましたが、来た道をずっと探ると見つかってしまうので、やはり諦められずたびたび繰り返す訳です。モノと自分に断ち切れない縁みたいなものを感じずにはいられないんですよね。自分の証明みたいな。過去を繋ぎ止めたい感情があるわけです。

学生の頃にすごーくダメな先輩がいて——「人間は変わるんだよ」という迷言を残して消えた——で、私はその人の言葉を座右の銘にしたいぐらい気に入っているのですが、変わるとは過去を断ち切ることなのか、あるいは一定以上散らかったら箱に仕舞ってアーカイブでいいのか、答えは分かっていませんが心に残ってます。

結果、過去が残らないと変化を知ることもできないというのが私の考えなので、これからも部屋に遺物(異物?)が溜まっていくと思います。ここには自分しか知り得ない物があって、と。モノにまで私との同一性を持たせようとしているんだと思います。
今度晴れたら部屋の塵を払おう…